昭和48年02月22日 古屋美津緒 一年祭
今日のこの一年の式年祭は、このように皆さんの真心いっぱいで、御用奉仕ができられて、仕えさせて頂くことが出来たんですけれども。今日ご神前でその事をお礼申させて貰いよりましたらね、「催されて」と言う事を頂きました。催されて。昨夜私はもう夜中にいつもここへ、また御神前へ出て参りますから、起きてここまで出て参りましたら、えらい茶の間で賑やかに話をしております。
若先生が話しよるのかなぁと思って開けてみたら、末永先生と、それから喜久雄さんと、それから信司さんと、光昭と四人でまぁ起きておりました。そしてコーヒーども入れてから頂きよりました。今日は古屋の伯父の前夜祭を、みんなで仕えさせて頂いておりますと言うわけなんです。たいへんコーヒーがお好きであったから、コーヒーをまぁ大変美味しいコーヒーを入れて、そんなら私も一つかたせて頂こうかと言うてから、それからまた一箭お茶を頂きながら。
古屋さんの所謂在りし日の古屋さんの事ども偲ばせて頂いて、夕べは随分遅うまで過させて頂きましたが。思うてみますとこう言う様な事が、所謂催されてと思うですね。なんともなしに催されてそう言う様な、例えば前夜祭というて霊前に出て、お祭りをした訳じゃないのですけれども。何とはなしに前の晩から色々な心準備というか、色々なねその叔父さんの在りし日の、お話どもさせて頂いたりして、兄弟が話してそれに光昭が加わって、そして私までもそれに加わらなければ成らない様な事が催されておる。
ですからこれは良い意味、悪い意味の事が言えると思うんですけども。例えばジメジメしたというならば、汚らしいというなら汚らしい催し、ジメジメしとればジメジメした催し。例えば幽霊なんかが出る時には、例えばお芝居でいうなら、ヒュ―ドロドロドロドロという、生臭い風が吹いてに催されて迷うて出るのです。それに催されると。例えば今日の御霊のお祭りなどの場合には、本当にあの真心と言う事は、結局御霊様が喜んで下さると言う事が、真心なんだからね。
どんなに賑々しゅう立派なお祭りを仕えさせて頂いても、神様が喜んで頂かなかったら、御霊様が例えば背中が痒いと仰るなら、背中を掻いてあげてこそ初めてそれが喜ばれる。御霊様の喜ばれるその事が真心なんだ。それにどんなに賑やかにしてから、はぁ掻いてあげましょうち言うて、前の方どん掻いとったんでは、かえって歯痒い思いをさせる様な事。そう言う様な事を取分けです、御霊のお祭りに実感させて貰う事は、この祭りという語源は、待つということだということを聞いておりますけれども。
取分け御霊様のお祭りにはこの待つという、待ち合うと言う事。もう何月になったら何日になったら、これはいうなら、主人の一年の式年祭。誠さんであるならば、お父さんの一年祭と、こう指折り数えて待つような思い。その思いをそのまま御霊様待つその待ち合う心がね、このお祭りという所謂催しになって来る訳です。本当に甘な辛なは、言うに及ばず色々と思いを尽くし、心を尽くしてタバコがお好きであったからタバコ。今日はそれに灰皿まで添えてあると。
本当に思いを込めた事だと思うですけれども。例えば催されて有り難い催しに催されて、今日のお祭りを受けられた。また私共もそれを奉仕させて頂いた。そこから御霊様の喜びというか私はそう言う事がね、御霊様の喜びというよりも神様の喜び信心する者は、何事にも信心になれよと仰るのですから。何事にも信心にならせて頂くその心が、天地の親神様が喜んで下さる、その喜びが御霊様の方へ通うていくのであって直接御霊様。例えばどんなに御霊様が、辛いものが好きであった。
甘い物が好きであったと言うて、まぁこさえたから直接それを召し上がる事が出来るとか、喜ばれるとかと言う事じゃなくて、そういう思い込めるその思いが、神様へ通うのであり。その神様が御霊様のお働きの上にも、また愈々安心の御霊としておかげを頂かれる事のためにも、おかげを頂いていかれる分けでございます。四神様と小倉の桂先生の奥様とのお話しの中にも、桂みつ先生がまだ娘で、御本部のあそこは、佐見かね佐見と言う所におられた時分のお話しですけれども。
大変な病持ちでそれこそありとあらゆる病気を持っておられたと言う事ですか、その為に入信のおかげを頂いて、山越えをしてからは、御本部御霊地、金光様の元に通うておられた。通われても通われても参られても参られても、一向体の方が大しておかげになられん時に、もう金光様本当にこういう体の、まぁ苦しみというかそういうのが、それこそ芹の根を水で洗ろうたように、すっきりとおかげが頂けんものでしょうかと言うて、言われたことがあったと言う事がね。
私はそん時の事をしきりに頂くんです。どう言う事だろうかと私は思ったんですけども。そしたらこういうあの、座り大根というでしょうかね、聖護院大根座り大根じゃない、聖護院大根のこんな大きいのを、いくつも括ったやつのまぁだ畑からこいで来たばっかりと言った様なのを頂くんですよね。はぁ聖護院と言う事は、まぁおかげを頂いておられる、正しい護りを受けておられると言った意味に感じたんですけれどもね。まだその泥のついておるという所にですね一杯。
と言う所にははぁ芹の根を水で洗ろうたように、大根というのはもうそれこそ、芹の根を水で洗ろうたように、洗い栄えのする野菜です、洗いさえすれば。もうすっきり奇麗になるもんです。ですからこう言う所をです、私はもう一つ私共が、何事にも信心にならせてもらうというなら、その所に信心を洗うと言う事は、清めると言う事でしょうけれども、清めさせて頂く信心の稽古をさせて頂いて、霊肉共に助かっていけれる。
喜び合うていけれるおかげを、この上もないものにしていかなければいけないと言う様な事を感じましたですね。聖護院と言う所にね、所謂正しいお護りを受けておられる。また皆の思いも今日、御霊様が受けて下さったと言う様な、それを私は今日の“催して”と言う事は、昨日からのその皆の思いとか、また恐らくは福岡の方でも明日は、明日はと言う様な、色んな思い込められた事だろうと思う。
そういう催し催されて、このお祭りが仕えられたと。いうならばそういう伴奏に乗っての、今日はお祭りだったと言う事なんです。是が催されてと言うところを無理にです。例えば楽の調べにと言う様なものにも乗らずして、お祭りを仕えると言う事だったら、非常に仕え難いと思うんですけども。とにかくその催されて、御霊様も今日は今日のお祭りを受けられたという感じ、催されて私共も例えば、お供え物一つの上にでも思いが込められたと言う様な感じ。催されて例えばわざわざ行き当りか。
今日はあちらの何かお月次祭だったそうけれども。お月次祭を終えて、まぁ飛行機で馳せつけて来られたと言った様なね、催されて出来た事である。是からとてもこの催されてという心。それをここでは天地のリズムと言った様な事を申します。本当にリズムに乗った日々であり、言わばお祭りであり御用であり、奉仕であると言う事にならせて頂かないと、そこに非常に骨が折れるという感じがします。
これかからの例えば、古屋さんのお宅の上の事でも、まぁ誠さんの学業が成るまでは、お母さんも大変だけれども、それでも本当に無理と言った様な事ではなくて、催されてね、御霊様の働きを頂いておる証拠、神様のお守りを受けておる証拠と言った様なね、そういう感じの中に勉強させて貰い、そういう感じの中に一生懸命働かせて頂くと言う事でなからなければ、お祭りだけが、催されておるだけじゃいけないと、私は思うですよね。
どうぞ。